プログラマ兼ゲームデザイナはもう古い

Lost Gardenから、最高のゲームデザイナはプログラマでもあるという考えはもはや古い、というアーティクル。昔の少人数による開発だった時代はともかく、現代的なチームによる開発を行う場合、プログラマゲームデザインをやることは、植字工が作家をやるようなものだという主張。

By selecting game designers that are programmers, we let our incestuous history determine the creativity of our future. We build iteratively on the limited seeds of past efforts and create games for programmers and people who think like programmers. The result is more Doom 4 and less Nintendogs.

要するにプログラマゲームデザインをやらしておくと、連中が好きな昔のゲームを再生産するばっかりで、Doom4みたいなゲームはできるけど、Nintendogsは生まれないよね、ということらしい。

まあ主張している内容は分からんでもないが、これはプログラマだからどうこうというより、プログラマが主に属するコンピュータギークコミュニティの好みが偏っているのが問題だね、っていう内容に思える。コメントでも、次のアーティクル(http://lostgarden.com/2005/11/five-step-program-to-move-beyond-game.html)でも、anti-programmerの意図があるわけではないと言っているし。

個人的には、プログラマであること自体は、ゲームデザインに悪影響を及ぼすことはないと思う。最近id:hally氏が翻訳を発表した、

におけるゲームの定義においても、

第三に画期的な点は、ゲームはメディアではないと断言していることです。メディアでなければ何なのか? ジュール氏は大胆にも、人間の同意のもとで生み出される実体のない状態機械 (オートマトン) である、と主張しているのです。人間はもともと無自覚に、ゲームをチューリングマシンに近いものとして作り上げていた、だからゲームとコンピュータはかくも相性がいい、というわけです。

ゲームはオートマトンであるという説明がなされており、この定義を受け入れるならば、オートマトンを操る専門家であるプログラマの素養は、ゲームデザインに不可欠とも言えるだろう。

ただ、上で挙げられているNintendogsがこの論文の定義でいうゲームかというと、どうも違うんだよね。Nintendogsは論文中のゲーム図における無期限シミュレーションに当たるため、ボーダーラインケースに位置づけられ、ゲームではない別の何かという扱いになる。

なのでLost Gardenのアーティクルに戻って考えると、要するにこの論文中でゲームと定義されるようなものを再生産しているようじゃダメ、せめてボーダーラインケースまで離れたものを視野に入れてデザインしないとね、という主張にも思える。そうなると、あるゴールをプレイヤーに達成させるためのオートマトンを組み上げることしか考えてない、プログラマデザイナではダメということになる……のか?

でも趣味の個人ゲーム製作者には選択の余地がない

とかいろいろ考えても、のら個人ゲーム製作をやっている我々には選択の余地がなく、プログラマ兼ゲームデザイナ兼グラフィッカ兼コンポーザー兼いろいろ、いろいろだ。どうせ古いゲームの焼き直しみたいなものを作ってばっかりですよーだ!

とかひねくれていてもしょうがない。小規模な独立系デベロッパは、市場に縛られない分自由にゲームをデザインできるけど、従来のゲームという枠にとらわれないデザインをするにはコミュニティが偏りすぎている、という問題もあることを認識しないといけない。だからフリーゲームでは、昔のゲームのクローンをやたら多く見かけるんだよなあ。

そもそも自分でゲームを作るような、強度のゲーマー脳の人間に、今までのゲームの枠にとらわれないゲームを作れ!って言うことに無理がある。ゲーマー脳は、きっちりとしたゴールのある古典的なゲームに楽しみを感じるよう長い年月をかけて熟成されたものだから、前の論文でいうボーダーラインケースのものをそもそも楽しめないんじゃないかと思う。で、自分が楽しめないものは作れない。いや作れるかもしれんが、趣味でそれをやるのは苦痛だよね。

まあでも無理をしてまで、いままでのゲームとは全然違うゲームを作ってやるぜ!とか気張る必要は特にはないんじゃないかなあとも思うわけで。そもそも、市場から昨今消え去っている昔かたぎのゲームがたくさんあるわけで、それを個人ゲーム製作者がほそぼそと復興させつつ、じりじりと前進させるという姿は決して悪くない、というかそれが私にとっての理想だ。

そんなんじゃゲームはこれからお先真っ暗だぜ!とかいう理念に燃える人がいるなら、先ほどの論文のゲーム図をまじまじと見つめ、新しいゲームはどこにあるのかを探す作業をしてみるのもいいだろう。真に新しいゲームは、この図の中の「ゲームではない」と書かれている部分に埋まっているかも。